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映画 いくつもの感動と出会い

映画『セブン・イヤーズ・イン・チベット』 初々しいブラッド・ピッド

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ブラッド・ビッド主演『セブン・イヤーズ・イン・チベット』は何度も観る映画の一つです。オーストリアの登山家ハインリヒ・ハラーの自伝映画。彼が若きダライ・ラマと交流を持った、チベットでの7年間を描いた作品です。

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作品情報

原作

 ハインリヒ・ハラー自身による1952年の著書 「Sieben Jahre in Tibet. Mein Leben am Hofe des Dalai Lama」 で、日本語訳は

1955年(昭和30年)に『チベットの七年』 (近藤等 訳、新潮社)

1981年(昭和56年)に『チベットの七年 ダライ・ラマの宮廷に仕えて』 (福田宏年 訳、白水社)※のちに『セブン・イヤーズ・イン・チベット チベットの七年』

中国の反応

上映禁止

『セブン・イヤーズ・イン・チベット』の公開後、中華人民共和国政府は、映画の中で紅軍の士官が意図的に無礼で傲慢な人物として描かれている、また紅軍兵士がチベット人に対し虐殺したかのような演出がされたとして強く非難した。このため『セブン・イヤーズ・イン・チベット』は中国で上映禁止となった(言論統制)。

関係者の入国禁止

また、映画の監督および主演者のブラッド・ピット及びデヴィッド・シューリスは中華人民共和国支配地域への立ち入りを無期限で禁止された。ブラッド・ピットは訪中しているので今は(2016年7月)は解除されている。

チベット

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中国の西南西に位置し南にはヒマラヤ山脈があります。ネパール、ブータンはチベットの南隣国になります。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3c/Flag_of_Tibet.svg/220px-Flag_of_Tibet.svg.png

綺麗な国旗ですね。日本人がデザインしたと言われているそうです。

チベット仏教と言われる密教の国。砂曼荼羅とかはよくTVで放映されています。1951年中国人民解放軍にチベット全土を制圧された。ダライ・ラマ14世は1958年にインドに亡命し、2011年にチベットの象徴となった。

 あらすじ

1939年秋、ナチス統制下のオーストリア。有名な登山家ハラー(ブラッド・ピット)は身ごもった妻イングリッド(インゲボルガ・ダプクナイテ)も顧みず、彼は同国人のペーター・アウフシュナイダー(デイヴィッド・シューリス)と共に、ヒマラヤ山脈の最高峰、ナンガ・パルバットを目指して旅立った。幾多の危機を乗り越えながら、彼らの探査行は続けられたが、思わぬ雪崩によって断念せざるを得なくなる。その頃、第二次大戦の戦火は日増しに激化し、彼らはイギリス軍のドイツ宣戦布告によって戦犯の捕虜収容所に送られてしまう。そんなある日、故国に残したイングリッドから離婚届けが届いた。自己中心的な生きかたをしてきたハラーにとって、初めて味わう大きな悲しみと挫折だった。収容所生活も2年を超えた42年9月。作業員を運ぶインド人に化けた2人は、監視の目を欺いて脱出し、追跡を逃れて過酷な自然環境の中での逃避行を続けた。足掛け2年に渡る長い逃避行を経て、45年、2人は外国人にとって禁断の地チベットのラサに辿り着いた。宗教のもとに生きるラサの人々の純潔な精神。ハラーにとっては心洗われることの連続だった。犬のエサを盗み食いしようとした時に助けられた、政治階層のツァロン(マコ)はハラーたちのよき理解者となり、あらゆる援助の手を差し伸べてくれた。また、チベットの貴族ンガワン・ジグメ(B・D・ウォン)の特別な計らいで、若く美しい仕立屋ペマ(ラクパ・ツァムチョエ)の元を訪れ、洒落た服を仕立ててくれた。そんな中、ハラーは若き宗教指導者ダライ・ラマ(ジャムヤン・シャムツォ・ワンジュク)の家庭教師を依頼される。西洋文明に大して大きな興味を示すダライ・ラマに、ハラーは英語や地理などを教えながら、深い友情と魂の交流を重ねていく。

引用:セブン・イヤーズ・イン・チベット : 作品情報 - 映画.com

ダライ・ラマ14世

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 ダライ・ラマ14世 - Wikipedia より

 

若かりしブラッド・ピッドが初々しく感じます。映画ではその当時のチベットを知ることが出来ます。

  1. 外国人を入国拒否
  2. 中国からの弾圧
  3. 幼いダライ・ラマが国家トップ
  4. 仏教国家

チベットは外国人の入国を拒否していたので、最初のチベット入りは拒絶されインドに連れて行かれます。再度チベット入りし犬の餌を盗み食いし見つかってしまうのですが、今度は温かく食事に招かれ身の回りの世話までして貰える。そこには「困っている人を助ける」という仏教の教えがあるのです。

日本も仏教文化が根付いていますので、映画で描かれているチベットの仏教文化は日本人も理解できるところもあります。映画ほどではないですが「土壌のミミズを殺してはいけない」という教えは、昔の日本にも根付いていました。ですのでこの映画を観ていて懐かしさを覚えます。最近は残念ながら薄れつつあります。

ハラ―が仕立て屋のぺマ(女性)にオリンピックで金メダルを取ったことがあると栄光を話したとき

「西洋ではあらゆる意味で頂上を極める人が英雄、私たちの理想は自我を捨てること」

と言われてしまいます。私はこのシーンが深く心に残っています。この映画を観るたびに自分たちが忘れつつある文化・思想がうっすらと蘇ってきます。日本も近年、西洋の考えに大きく変換しています。資本主義は、自我を強調することで社会が回るようになっているので仕方のない部分はあります。経済や収入という数字の世界で社会が回っている感じです。

ダライ・ラマとハラーの関係も映画を面白くしています。外部の情報に興味のあるダライ・ラマはハラ―からいろいろ学ぼうとします。ハラ―映画館の建設をお願いしその状況を報告を毎日させ、その機会にいろんなことを質問し、二人は親交を深めます。実際にハラ―がオーストリアに帰ってからも親交はあったようです。

www.tibethouse.jp

中国の侵略シーンはダライ・ラマの自分の故郷が中国軍襲われる夢から始まります。一方的な攻撃として描かれているので中国政府としては非難せざるおえないでしょう。チベット問題は中国の悪いイメージを全世界に知らしめた出来事でした。僧侶の焼身自殺もありました。自分たちが信じる文化の崩壊はアイデンティティーを喪失してしまうので死の選択となるのでしょう。何か長年大切にしてきた美しいものが侵略によって踏みにじられる様子が砂曼荼羅を中国幹部が踏みにじるシーンで良く表現されています。

 

ハラ―はチベットを去るときにダライ・ラマから家庭教師のお礼にオルゴールを貰います。そのオルゴールを初めて会う息子の部屋にそっと置いてプレゼントします。会いたがらない息子の気持ちを汲み取ってガラス越しから息子がオルゴールに近寄る姿を覗きます。誰よりも自我が強かったハラ―が、チベットで人の温かさに触れ、チベットの文化に感化され、7年間で自我を捨てることが出来るようになった証のシーンです。

政治的な問題を生んだ作品でしたが、西洋文化と東洋文化の違いまた我々が忘れようとしているものを思い出させてくれるいい映画です。

 

まだ見ていませんが、同じ時期にチベットを描いた映画で『クンドゥン』もあります。

eiga.com

 

関連リンク

チベット動乱 - Wikipedia

チベットの歴史 - Wikipedia

ダライ・ラマ14世 - Wikipedia

ハインリヒ・ハラー - Wikipedia

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チベットの七年―ダライ・ラマの宮廷に仕えて

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