キネマの館(ヤカタ)

映画 いくつもの感動と出会い

映画『沈黙 サイレント』感想

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遠藤周作の「沈黙」をあの名匠マーティン・スコセッシ監督が手掛け、人間とはなにか?進行とは何か?社会とは何か?を問いかける重厚作品です。 

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作品情報

公開:2016年

時間:2時間42分

監督

主なキャスト 

セバスチャン・ロドリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)

フランシス・ガルペ神父(アダム・ドライヴァー)

ヴァリニャーノ院長(キーラン・ハインズ)

通辞(浅野忠信)

リカルド(リッチ・グラフ)

モキチ(塚本晋也)

井上筑後守(イッセー尾形)

キチジロー - 窪塚洋介

日本人俳優の演技力が目立ちました。特にイッセイ尾形の井上役は素晴らしいです。

 

感想

私はこのような宗教絡みの作品が好きで、同じように南米のある村落への布教活動を描いたロバート・デ・ニーロ主演『ミッション』は私のベスト3に入っています。

この『沈黙 サイレント』は一体どういうことを描こうとしているのか観賞前から期待が膨らみました。原作は遠藤周作、日本人です。そして監督は多くの名作を世に送り出しているマーティン・スコセッシ。日本では『タクシー・ドライバー』で有名になった監督です。

江戸時代のキリシタンへの迫害を日本人目線で書いた原作をアメリカ人監督がどう感じ取り、どう描くのかとても興味が湧きます。ですから鑑賞前に原作の小説を読むことにしました。ロドリゴが棄教した後の話が原作と映画でことなるところもとても興味深いところであります。

遠藤周作がこの作品を書くことになったきっかけですが、それは彼が小学校時代にカトリックを信仰し始め、戦時中に差別的な扱いを受けたこととあります。

遠藤は、キリシタン時代に関心を持つ理由として自らが戦争時代に敵性宗教を信じる者として差別を受けた経験があったからとしている。

遠藤周作 - Wikipedia

 信仰によって差別する日本の風習、あるいは特質というものに感心があったんだと思います。私がキリシタンでないからかもしれませんが「沈黙」という作品が単な封建的な日本社会の批判には受け止められず、もっと人間の本質に迫ったもののように感じています。

一方この作品を映画化するマーティン・スコセッシもカトリックの司祭を目指したことがあるそうです。

日本の溝口健二監督の『雨月物語』など、世界の映画の古典を見て育つ。だが少年時代は、映画監督ではなくカトリックの司祭を目指していたという。

マーティン・スコセッシ - Wikipedia

共にカトリックで通じ合う何かがあったのかもしれません。その辺りもカトリックを学んだ人にしか分からないことが、この作品にはあるのかもしれません。カトリックの人がこの作品をどう捉えて観たのか聴いてみたい気もします。

舞台は1630年代、江戸幕府がキリスト教を禁止し長崎では踏絵を実施しキリスト教徒に厳しい罰則を与えていました。ポルトガルの2人の司教が、自分の師であるフェレイラが日本でのキリスト教迫害に追い込まれて棄教(宗教をすてること)し、消息がわからなくなったという知らせを聞き、師を探すと共に布教活動を復活させることを目的に日本にやってくるところから物語は始まります。日本に渡ってきた司教の1人セバスチャン・ロドリゴの書簡とうい形式で語られていきます。

今どき珍しく音楽はほとんど使わず、古い作品のような感じに仕上げられていますが2時間を超える時間もあっという間に終わります。

印象に残った点の一つに日本人俳優の演技がとても光っていたことが挙げられます。とくにイッセイ尾形はキリシタン迫害中心人物、井上筑後守の底しれにぬ不気味な誘導術をみごとに演じています。次には井上筑後守の元でセバスチャン・ロドリゴの通辞役を演じる浅野忠信も自然な感じがしてとても良かったです。また気弱で脅されれは直ぐに棄教してしまうキチジローを演じる窪塚洋介も存在感がありました。世界のマーティン・スコセッシには日本の役者はどう思われたのでしょうか気になりますね。

実はこの「沈黙」日本でも1971年に篠田正浩監督によって映像化されています。2つを見て日本人目線と他国の人の目線の違いを比較するのも面白いと思います。篠田監督作品は、YouTubeなどを検索すると観れたりもします。結末のロドリゴの描き方がいかにも日本的でどろどろした人間の本性に迫ります。

 「日本は泥沼で根が育たない。」作中に何度か出てくるセリフです。何故日本ではキリスト教が根付かなかったのだろう?

私は日本という国では、キリスト教だけでなく信仰が深く根ざすことがないのではないかと思います。仏教は根ざしているように思えてもカトリック信者のように常に心で神と対話してはいないし、神道に関して言えば教典のようなものも知らないし初詣と旅行に行った時くらいにしか参拝をしない。元々がこのような国だから、後から海外から入って来たキリスト教も布教には困難を極めるのは当たり前のように感じます。江戸時代だったからと思うかもしれませんが、戦後宗教が自由になってもキリスト教が深く根付いているようには思えません。多くの日本人は、キリスト教徒のように神の存在を信じ精神性を高めるようなことには意義を感じていないないのではないかと思ったりもします。日曜日に教会に行くことさえも面倒と思う人が多いのではないかと思います。

家に神棚と仏壇が両方あるように宗教の都合の良いところだけ肖りたいというレベルなんだと思います。

辛い拷問でも絶対に棄教しないで命を落としていく信者たちのそれは深い信仰心とは別のただ単に逆境を耐えているだけのものなのかもしれません。

神の沈黙について考えてみました。

ロドリゴに取って日本は想像を遥かに超える苦境の場であったはずです。神を信じる信者達の支えとなりその心を広げようと尽力します。それでも神は何も示しません。ただ教えのまま生きるだけでは神の声は聞けないのです。今まで自分の見ていたもの聞いていたものが虚偽だったことに気付き新たな目で世界を広げる時に神の沈黙は破られるのではないか。

この作品にの結論を出すことは不可能で観た者が人生を歩んで行く中、常に付きまとう問題を提示しています。そして気付きというものがどれだけの苦悩から生まれるものかが分かります。気付きの本来の姿をしるためにも一度は観るべき映画ではないでしょうか。

 

予告動画

youtu.be

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